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2013年9月1日日曜日

ヴェステルボルク通過収容所を訪れて

身近な人が亡くなることを悼むのは自然の心情。彼らとの関係から、自分の一部が亡くなるように私は感じます。しかし、まったく会ったことがない人が亡くなることにはそれほど繊細にならないのではと思います。敏感に彼らの死を感じるとしたら、それは恐らく彼らの人生の一部を何らかの形で知って、一時でも彼らの状況を想像する、感情移入する時、あるいは自分の経験と照らし合わせて彼らの状況を慮るときなのではないでしょうか。ニュースなどで聞く他人、そして多数の死は数以上に何も意味を持たないものなのでしょうか?全てに敏感になっていたら身がもちませんが、彼らをそういう状態に置く、暴力を憎む気持ちを持ちたい、そして歴史を学ぶためこうした場所に極力訪れるようにしています。

 ヴェステルボルク通過収容所は、第二次世界大戦中、オランダのユダヤ人やジプシー(ロマ民族)、レジスタンスなどの人たちがオランダの外、とりわけドイツ、ポーランドにある絶滅収容所や強制収容所へと移送されていく通過点になった場所です。1944年8月4日、アンネフランクの一家はゲシュタボによって隠れ家を発見され、その後8月8日に移送され、アウシュビッツ強制収容所に移動されるまでの約一カ月をここで過ごしました。残念ながら交通の便があまり良くはない場所にある博物館ですが、オランダにお越しの際は来られたらよい場所かと思います。

 ヴェステルボルク通過収容所の博物館の展示は、大きくは2つに分かれています。一つは通過収容所と収容者たちの生活、そしてその当時の情勢などが時系列に説明されています。もうひとつは、手紙や証言など個人の記述、証言によってこの歴史的出来事を学べるスペース、とくに16歳以下の子どもたちがオランダのフトのキャンプからソビボル強制収容所に移送されその直後に虐殺された史実について焦点を当てております。博物館そのものはそれほど大きくはありませんが、展示物から歴史を学ぶことが出来、当時の様子、そして収容された個々人の人生、彼らの感情、そして家族とのつながり等を強く感じました。

 1941年、ドイツ軍は全てのユダヤ人をオランダの国外に強制退去させることを決定しました。ユダヤ人がシナゴーグを中心としたコミュニティを形成していることを知る、ドイツ軍はそれらリーダーはドイツ軍の意向に従うべく協力を強制されました。国内全てのユダヤ人は登録を強制され、登録をもとにヴェステルボルクに一時的に移送されます。勿論、強制退去の後に強制収容所で虐殺されることを聞き、登録をせず潜伏そして中には抵抗運動に加わる人たちも居ました。

 強制移住に際しては、手荷物はたった一つのスーツケースあるいはバックパックのみの携帯を許されました。収容所の登録に際して、全ての貴重品とお金は没収されます。収容されたユダヤ人たちの望みは、この通過収容所に解放される日がおとずれるまで、一日でも長く滞在すること。キャンプ内で仕事を見つけることで、長く滞在出来ることから、収容された人々は仕事を探すことにつとめたといいます。
 親衛隊(SS)は、通過収容所での生活を一般的な街のそれと変わらぬように努めたと言います。人々は結婚し、子どもも生まれ、病人は手厚い看護を受け、子どもたちは学校に通い、キャンプには劇場、図書館そして、シナゴークもありました。キャンプには期待と絶望の異なる感情に支配されていたといいます。

 通過収容所がユダヤ人たちを収容そして、オランダ国外に彼らを移送開始したのが1942年7月15日、1943年初頭から毎週の移送スケジュールが組まれるようになりました。毎週火曜日、1,000人ほどの収容者が移送させられ、1945年4月にカナダ軍に解放されるまで合計93回、10万人以上が通過収容所から強制収容所に送られました。
 35,000人がソビボルに送られ19人だけが生き延びました。62,000人がアウシュビッツに送られ1,000弱が戦中を生き延びたと言います。それらの強制収容施設に送られてすぐにガス室に送られた人々、そしてその他の人たちは、極めて過酷な強制労働に従事させられました。ベルゲン・ベルゼン強制収容所(Bergen-Belsen)、 テレージエンシュタット(Theresienstadt)に送られた8,000人のうち4,000人が生き延びたと記録されています。

 102000回:母、父、息子、娘、祖父、祖母、おじ、おば、姪、甥、友人たちが殺された。
 (博物館内の展示物、説明文から) 
印象に残った記述は、未熟児として生まれた赤ちゃんの話。通過収容所に来る6日前に生まれた赤ちゃんは3カ月の未熟児。赤ちゃんの体重はたったの2.5ポンド(約1.1㎏)。通過収容所に到着と同時に、保育器に入れられ、その後体重は5.5ポンド(2.5㎏)まで増えましたが、その後すぐにアウシュビッツに送られたといいます。

 展示されている手紙や記述から、訪れた人は戦争について考え、戦争に対して嫌悪を抱かざる得ないのではないかと思いました。
 けど、実際の国際政治の文脈に合わせると、「仕方がない」と様々な事情から思い、理由をつけます。戦争の理由はいくつもあります。国の独立を維持するため、国防のため、迫害を受けている人たちがいるので保護する責任として、復讐、同盟国が戦争に関わっているから・・・
 国際的道義として、懐疑主義的、国家中心的道義主義、そしてコスモポリタンという異なる見方がありますが自分のコスモポリタンな側面が刺激されたように思います。自分自身、国際政治は、個々人からなる社会の問題とまでは突き詰めて思わず、また絶対的平和主義者ではないものの戦争や圧倒的な暴力をなくす努力、あるいは極力小さな規模で、そして初期で留められる方法はあるし、それを追求すべきであると強く思います。
 暴力を憎む心を持つことの重要性を考えつつ、実際の国内外の政治でそれらの思いがどういう形で反映されるか、現在のシリアの情勢も鑑みて考える日々です。
  

 

 

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