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2016年7月9日土曜日

歴史教科書問題に解決は見られるのか(2):歴史家の役割

歴史教科書問題に解決は見られるのか(1)では、歴史的不正義とは何か、その要素の記述を見ました。被害者、加害者などの関係者、関係者がまだ存命中、あるいは既に亡くなったという時間制、生きている被害者と加害者の別、そして存命中あるいは既に亡くなっている関係者のアクションなど。それらを元に歴史的不正義について、歴史家は何ができるのかについてAntoon教授は引き続いて講義した。

各国のケースについて、パネリストが発表


歴史的不正義に対し、歴史家が出来ることは「責任ある歴史記述」。責任ある歴史記述とは、正確さと誠実さ。正確さと誠実さがある歴史記述は、民主主義を強化し、歴史的不正義に対する闘争を助け、正義を増進するアンプリファイアー(増幅器)の役割をする。

歴史的不正義を学ぶことは象徴的な償いをすることである。弁証法的に述べるのであれば、民主的な社会は、社会的な不正義が少なく、社会的不正義の被害者に対する関心が非民主的社会よりも高い。人権は、民主主義を促進する。人権は、不正義に対する闘いを強化する。

もし我々が歴史を学ばないのであれば、歴史における不正義が起こる可能性が増すことを意味する。過去の歴史的不正義を追究せず、真相を究明せず、罰せず、学ばず、そして教えないことは、決して民主主義を強化しえないのである。

では、実際歴史的不正義をどうやって教え、学ぶのか、それはもっともな根拠がある歴史解釈を教えること、そして過去の(誤っている/正統な根拠に基づかない)歴史解釈を拒絶すること。

そのように責任ある歴史記述を追及していくものの、歴史的不正義を学び・教えることは歴史の機密性、虚偽、沈黙の3つの理由から難しい。

機密性には、真実を詳らかにすること、情報を得ることを努力することで対処し、虚偽には論駁と論争、沈黙には認識・承認することを持って答える。しかし、それでも歴史家が歴史的不正義の問題に対する時に直面する問題がある。

まず誰が歴史的不正義の被害者であるのか。被害者を特定するのは被害者の沈黙の故に難しい。沈黙の故に、被害者が何を考え/感じたのか、我々が知ることが難しい。そして、それら(直接・間接的)被害者をどのように追悼すべきか、そしてどの程度、どのような方法でもって行うことが望ましいのか。

第二に、倫理・道徳的審判を歴史家が下すべきであるのか。表現の自由から判断を下すことも、同時に下さぬことも許されているが、どちらをとっても非常に困難である。判断を下す場合は、勿論判断するに足る十分な証拠がなければならないこと。それでも価値判断からは自由となりえないため、①各時代(epoc)の持つ価値、②自らの持つ価値、③普遍的な価値(国連の人権宣言などにあらわされる)の三つを常に意識し、その違いをよく認識しなければならない。

判断を下さぬことも許されるが、しかし歴史的な検証を続けていき、目を覆いたくなるような人権の侵害や被害者の惨状を目の当たりにした時にはむしろ倫理的・道徳的な裁きを下さないことがむしろ難しいのでないだろうか。

第三に、一般大衆が歴史的検証をどのように受け止めるのか。史実の正さが充分な論証を持ってなされても一般大衆がそれを受け入れない可能性もある。また、過去の悲痛な歴史を詳らかにすることで、過去の傷に触れることになる。一般大衆は、それらの過去に耳を傾けることを躊躇するであろう。



↑会場の様子がビデオに(私も密かに映っていますw)

まとめとして、歴史家は裁判官ではない。それ故に、歴史的な事件に対して審判を下せない。しかしながら、歴史家によって責任ある歴史記述が果たす役割は個人、社会に対して大きい。ゆがめられた理由を正し、機密性・虚偽・沈黙を破る。直接的・間接的な被害者に象徴的な補償をもたらしまた、民主主義を強化し、過去の世代が犯した歴史的不正義を現世代に認識させうる働きがある。歴史教育に携わるものの役割は大きい。



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